内藤晃 ショパン 24の前奏曲 作品28

2010年12月01日発売

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ショパン生誕200年
内藤 晃・話題の New Disc /ショパン≪24の前奏曲 作品28≫ 他
2010年12月01日発売

HERB-014 3,150円(税込)
無題.jpgショパン生誕200年。ピアノの抒情詩人・内藤晃が、往年の巨匠時代の銘器/1912年製ニューヨーク・スタインウェイ(CD368)で奏でる、ショパンの「祖国ポーランドへの愛歌」。

2本のピュアなマイクロフォンのみによる究極のワンポイント録音で蘇る黄金の響きが、
ショパンの魂の慟哭を見事に表現。

収録曲目/ショパン Frédéric Chopin (1810-1849)
24の前奏曲 作品28 24 Préludes, op.28 
ワルツ 第5番 変イ長調 作品42 Waltz No.5 in A flat major, op.42 “Grande Valse”
夜想曲 第8番 変ニ長調 作品27-2 Nocturne No.8 in D flat major, op.27-2
即興曲 第3番 変ト長調 作品51 Impromptu No.3 in G flat major, op.51
幻想曲 ヘ短調 作品49 Fantasia in F minor, op.49

できれば朝の静寂な空気の中で、あるいは眠れない夜の闇の中で、自分の中の深い記憶と対話するような気持ちで、この音盤に耳を傾けたい。混ざり合う記憶とともに、内藤晃のショパンが、今日と明日をつないでくれるように思う。(飯田有沙)

録音:2010年6月23日~25日 
群馬県みどり市笠懸野文化ホール[PAL]でのワンポイント録音
1912年製ヴィンテージ・ニューヨーク・スタインウェイ(CD368)使用

プロフィール

内藤 晃 (ピアノ)

1985年生まれ。これまでにピアノを城田英子、川上昌裕、デイヴィッド・コレヴァー、ヴィクトル・トイフルマイヤーの各氏に、ピアノ、音楽理論、室内楽を広瀬宣行、秋山徹也の両氏に、指揮を紙谷一衛氏に師事。
チャリティー、施設慰問等の演奏活動に長年意欲的に取り組み、2006年度、(財)ソロプチミスト日本財団より社会ボランティア賞受賞。東京外国語大学在学中の 2008年3月、CD「Primavera」でピアニストとしてデビュー、「レコード芸術」5月号誌上にて特選盤に選出され、「作品の内面と一体化した純粋な表現は聴き手を惹きつけてやまない」(那須田務氏)などと高く評価される。
栄光学園中・高を経て、東京外国語大学卒業(専攻:ドイツ語)。大学在学中より並行して桐朋学園大学にて指揮も学び、現在、ピアノ、指揮、執筆の各方面で活躍中。リサイタルを定期的に開催するほか、全国各地の楽器店において「ピアノ弾き比べコンサート」を展開し好評を博している。校訂した楽譜に「ヤナーチェク:ピアノ作品集1・2」(ヤマハミュージックメディア)がある。(社)全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)正会員。

ライナー・ノート

滲みゆく記憶のあわいに——内藤晃のショパン                  

飯田有抄

 この音盤に刻まれた内藤晃のショパンには、さまざまな仕掛けがある。だがそれらは、静的で固定化された計算によるものではない。そこにあるのは音から音への準備、はずみ、合図、牽引といった動的な関係である。楽曲の最終音ですら、それは束の間の解決に過ぎず、音はまたどこか果てしなく深い世界へと立ち返っていく。内藤晃の演奏を聴くとき、なにかその音楽の背後に見え隠れする大きなものへと誘(いざな)われている気がしてならない。彼の音楽の動的な性質は、ときに音の「ずれ」や「かすれ」といった不確定な位相の中に、またときに「にごり」や「滲み」といった視覚的な様相としても受け取ることができるかもしれない。
 ショパンの前奏曲第7番は、わずか16小節という前奏曲の中でも小さな作品である。この一見シンプルで優美な3拍子の音楽に、内藤は音の「滲み」をきかせた。ダンパーペダルの緩やかな踏み替えが、引き延ばされた和音の中にかすかな倚音の響きを残すのだろう。その繊細な加減による効果が、このよく知られた小品に新たな表情を持たせてはいないだろうか。甘くやわらかなメロディーラインから、じんわりと音が濁り、滲むように広がる。絵の具や墨で引いた線が、後からゆっくりとかすんでいくかのように。その滲みはぼんやりと暗い影を思わせ、そしてさらに、曖昧で輪郭のはっきりしない遠い日の記憶を、ゆっくりと呼び覚ますようでもある。
 わたしたちはこの日、この時間、この瞬間だけを純粋に生きているわけではない。日一日、刻々と蓄積されていく時間と記憶と共に生きているのだ。もちろん一つ一つの出来事はやがて忘却の彼方へと消えていくかもしれない。だが、出来事から受けた印象などは、何かしらの欠片や痕跡がどこかに残っていて、ある時ふと、その人のものの感じ方や考え方としてひょっこりと顔を現す。たとえそれらが今の私と矛盾するもの、今の私が否定したいものであったとしても。
 記憶と完全に分断された個人などありえないように、いわゆる純音も自然界には存在しない。完全なる沈黙が存在しないのと同様に、完全に純粋な音というのもない。わたしたちの周囲にたえず立ち上る音は、複雑な波形をもった複合音である。微細に不純なものが織り込まれた音たち。それらの音の一つ一つの、どれをノイズと受け取るか、あるいは何をもって心地よいものとするかは、もしかすると個人の積み重ねて来た経験や記憶による所が大きいのかもしれない。
 後天的に作り出される音への感覚。内藤の奏でるショパンの前奏曲は、そうした音への意識を私に強く意識させた。第6番の微細な時間のたわみ、第7番のにじみ、第12番の終結する二音の乾いた音、第15番のどこか即物的でありながら音の語りたい方向のままに進む音楽、そして第24番の最終音三つのD音が見せる残酷な濁り。遠い記憶の中に眠る、私の音への感度の始発点が、揺さぶられるような響きの連続である。
 内藤晃のピアノの実演を初めて耳にしたのは、2008年12月1日に津田ホールで開かれた彼のリサイタルであった。音楽ホールとしては決して大きな会場ではないが、500近い客席を埋め尽くす聴衆を前に、内藤はモンポウやチャイコフスキーの小さな作品を含むプログラムを弾いた。遠鳴りのするppを何度もくり出しながら、音楽を丁寧に紡ぎ出し、時おり首をはっきりと客席の方に向けるようにして弾き、あたかも聴き手との意思疎通をはかるようにしながら、その空間を彼の音楽でいっぱいに満たしていた。ああ、この人は、こうした小品をひとつひとつ響かせて、小宇宙をたくさん積み上げて、そんな独特な姿勢でわたしたちを魅了してしまうんだ、といたく感動した。ほら、こんなに小さい曲なんですよ、とさりげなく提示しながら、それらの圧倒的な世界観を積み重ねていくことで、わたしたちの内側から引っ張っていってしまうんだ、と。
 内藤晃のそうした小さな音宇宙たちは、美しい“気まぐれ”のようにも響く。気まぐれの一つ一つはまったく別個に分断されたもののように見えながら、積み重ねてきた記憶が誘発した、根底でひとつにつながる物語なのかもしれない。小品の美しくも恐ろしい力が、内藤晃によって呼び覚まされる。このショパン・アルバムの選曲にもやはり、内藤のそうした音楽的世界観が表れているように思う。前奏曲Naito Nov,20-2_1.jpgは、そのあとに続く何か大きなものを予見させながら、浮かんでは消えてゆく憧憬である。瀟洒なワルツとノクターンは、いたずらに耽美的に陥ることなく、現実のなかで見る夢のようである。即興曲第3番では、不意に現れる上行する音型が、行方がはっきりしないままふわりとどこかへ消えて行く。そして幻想曲では、次々に現れる楽想が、互いに関係を持ちそうで持たないまま進んでゆく。その移り気な音楽のコラージュを、内藤は巧みに作り上げる。小さく美しい“気まぐれ”が集積されていく彼の音楽に、耳をそばだてずにはいられない。ふとした驚きやこみあげる懐かしさ、ほとんど傷つけられるような厳しさや、人知れず浮かぶ微笑。なんと人を集中させる音楽家なのだろうか。
 彼の音楽観を実現するために、内藤晃がこの録音で使用した楽器は、1912年製のニューヨーク・スタインウェイCD368だ。このピアノは、コンサートの舞台上でピアニストたちが弾くためだけに、ホール貸し出し専用に製造されていたタイプの楽器である。およそ100年前のヴィルトゥオーゾたちの音楽する姿に想いを馳せ、今こうして内藤の手を介して届く音色を聴く。そこにはなにか音楽の遠い記憶、音楽家の深い念と呼べるものが刻まれているように思われてならない。“気まぐれ”のように移ろう内藤の音色の数々を耳にするだけでも、この楽器がどれだけ繊細に反応をしているのかがわかる。おそらく、鍵盤を深く押さえるか、底まで押し切らないほどに軽く触れるかで、音の表情は無段階に変化するのであろう。豊かに倍音の混じり合う一音一音が、繊細なアクション機構を通じて幾重にも折り合わされ、ショパンの三連符やアウフタクトや装飾的なパッセージによる「ずれ」をさらに引き立たせる。鏡の中の鏡を見るように、この楽器の音が深く遠くにつながる「うねり」となって、内藤の音楽が歌い出す。
 できれば朝の静寂な空気の中で、あるいは眠れない夜の闇の中で、自分の中の深い記憶と対話するような気持ちで、この音盤に耳を傾けたい。混ざり合う記憶とともに、内藤晃のショパンが、今日と明日をつないでくれるように思う。
 (いいだ ありさ/音楽ライター・翻訳)